先日久しぶりに夢を見ました。起きてからも鮮明に覚えている夢。そこに出てきた懐かしいチームメイトの顔が、自分がストレングス&コンディショニングの世界に飛び込んだ原点を気づかせてくれました。
ようやく明確になった私が今の仕事を目指した原点について。リライト記事をUPします。
大好きな野球をトラウマにしてほしくなかった
高校時代の苦い思い出
高校三年の夏大会前。私にとって大きな大きな事件がありました。
同学年の投手であったA。彼は超目玉の野球推薦選手でなかったにも関わらず、小気味のいいピッチングをしコントロール抜群でした。1年秋から背番号をもらい、同級生で3本の指に入るような将来有望選手だったのです。
そのA、実は1年の秋の時点で肘に痛みがあったそうです。しかし当時1~2年だけで70名を超える選手の中で背番号をもらい、試合登板ができるチャンス。無理を重ねてアピールし続けた結果、2年の春には全く投げられないように。肘の手術を受けました。
当時は全く知識がありませんでしたが、今でいう上腕骨内側上顆のはく離骨折。典型的な野球肘だったわけですが、術後のリハビリが思わしくなく、結局再手術を受けることとなりました。
順調にいったとしても、投球再開は3年時の5月からという内容でした。
1年以上実戦形式から離れている彼が最後の夏に向けて、アピールをしベンチ入りできる可能性は非常に低い。同級生の野球部員皆がそう認識していました。
野球部での日々のほとんどをチームとは完全別メニューで過ごしていたA。マジメながらも明るいキャラクターで冗談をよく言っていたAも、徐々に口数が少なく消極的な行動が目立つようになりました。
甲子園を夢見て野球部に入学した投手が、一切ボールを投げられないのだから当たり前ですよね。
そんな彼の変化に気がついていたものの、私の当時の精神状態も最悪。中途半端な自分の実力と、皆で甲子園を目指すという理想のチーム像とかけ離れていたチーム状況。
そんな状況を打破するほどの影響力を、実力でも行動でも与えられなかった一選手である自分に、いつも苛々していました。
Aに関してもどうしていいのかわからず、結局これといった具体的な行動は何もできなかったのでした。
梅雨が続いていた6月初旬。雨の為使用できないメイングラウンドの横、屋根付きの小さなブルペン。
3グループに分かれて、ジムでのウエイト、校舎での補強ラン、そしてブルペン内でのティー打撃、という雨天時の短めの練習を終えた後でした。
当時の副キャプテンである捕手Bが突然、「おい、A。アップしてブルペンで投げてみろよ!」 と言ったのです。
5月から投球再開出来ればといっていたAでしたが、実際に行えていたのは30Mまでの弱いキャッチボールのみ。どう考えても彼がブルペンでいきなりピッチングなどできるわけはありません。
たぶんBには1年秋のAのピッチングのイメージが残っており、夏の西東京予選を勝ち抜くためには、不安定な左腕エース以外に実力のある右腕が欲しかったのだと思います。
無理を承知でAが間に合うのかどうかを確かめたかったのでしょう。
Aは何度も首を振り、「無理だよ、無理。」と断っていましたが、捕手Bも強引に誘い譲りません。結局渋々、という感じでAはアップを始め、軽いキャッチボールを行いました。20分ほど経ってから、だったと思います。Aがマウンドに上がりました。
彼が行ったのは、立ち投げ。捕手Bは座らずに、立った状態でAの球を受けました。…その球は1年秋のときと比べても明らかに遅く、弱いものでした。チームメイトのほとんどが、悲しい気持ちでそのピッチングを見つめていたはずです。
20球ほどが過ぎたころ。突然ミットをグラウンドにボトッと落としたB。ポーンとボールをその場に放り出して、「やめだ。A、わかったろ、間に合わないよ、絶対。諦めろ。」と淡々と言いました。
そしてそのままブルペンを出て行ったのです。
私の頭野中は真っ白に。自分が耳で聞いたことを理解するまでに時間がかかったからでした。
そんな酷いこと、なぜ今言わなくてはいけないのか。皆が薄々気づいていたことを、なぜ大勢のチームメイトの前で見せつけなくてはいけないのか。18歳になったばかりの短気な若造だった自分。
気がつけばBの下に走り、彼の胸ぐらをつかんでいました。
「何の権利がお前にあって、そんな酷いことが言えるんだ!」
もっと口汚い言葉だったかもしれません。そんな事を涙目で叫ぶように伝える弘田の手をすごい勢いで振り切りながら、Bは、「そんなことにばっかり熱くなっているから、いつまで経ってもお前は上手くならねぇんだよ」と言いました。
今ならばそんな台詞にひるむことはないでしょう。私の野球の技術が停滞した大きな理由はそこではなく、本質ではありません。それでも当時は、Bが言い放った台詞が、グサッと自分の胸に突き刺さりました。
その様子を見ていた同級生たちが、少し戸惑ったように、それでも私の後に続くようなことなく、伏し目がちにただ見守っていたこと。それにも大きなショックを受けたのでした。
チームメイトの何人かは、Aのもとに行き励ましていた記憶があります。顔面蒼白のAはただブルペンの前でホームベースの方を見つめていました。…そんな彼の姿を見ることがいたたまれずに、ろくに声もかけられずにグラウンドを立ち去ったのでした。
自宅に思わず電話をかけると
家に帰っても、何も食べる気にならず、すぐ自分の部屋に入りました。頭の中をAに対するBの言葉、そしてBが私に言い放った言葉がぐるぐると回るだけ。
…1時間ほど経ったころ、どうしてもAに話がしたい、という気持ちが湧き上がってきました。
何を伝えたいのか、まとまっていたわけではありません。結局何もできなかった自分を正当化したい気持ちがあっただけかもしれません。
携帯電話のまだ普及していなかった当時、連絡網の紙を引っ張り出し、自宅の電話からAの家へと電話をかけました。
Aは電話口には出ませんでした。Aのお母さんが心配そうに、帰宅してから真っ直ぐに部屋に閉じこもり、晩御飯も食べていない、何かあったのだろうか、とたずねてきました。
「ちょっと今日部活でトラブルがあって…」とだけ伝えて、そそくさと電話を切った私。…自分自身が情けなく、勝手に涙が出てきた夜でした。
大好きな野球からトラウマで離れてほしくない
AとBはその後、私がみた限り最後の夏大会が終わり引退をするまで、親しく話すことはありませんでした。そしてもちろんAはその日以降、一度もブルペンには上がらないまま引退しました。
癖のある人格のBでしたが、今考えれば彼なりの誠意の部分もあったのかもしれません。全く興味がなく自分のことのみ考えていたのであれば、そういった声掛けもしなかったでしょう。
また思春期特有のある種の照れが、最も直接的な表現や言動を選ばせたのかもしれません。
ただ、そんな様子の選手がチームの主力選手を担い、Aにまつわる出来事に対して大多数のチームメイトが声をあげないようなチーム。
それなりの強豪校ではありましたが、平均ベスト8程度の実力で、そんなチームカラーのこの学年が、甲子園出場など為せるわけはありません。
結局ベスト8をかけたゲームで0-1のサヨナラ負け。一度も夢の舞台、甲子園へは立てずじまいで、私の高校野球も終わりを告げました。
引退後、2~3か月は付け焼刃ですが、狂ったように勉強。大きな大学の付属高校だったため、学校内の統一テストでギリギリのスコアを取り、何とか日本大学文理学部体育学科へと進学することができました。
Aとの再会
桜上水のキャンパスに通い出したある日。サークル勧誘をする先輩たちの中に、Aの姿を見つけました。一般受験を経て、Aもたまたま私と同じ体育学科へと進学を果たしたのでした。
何のサークルに入るの?と聞いた私に、Aは少し寂しそうに「野球以外、かな」と笑いながら答えました。
私はといえば野球に未練タラタラで、選手としての野球を諦めた後も、野球サークルに入ってプレーは続けていました。それでもゼミで時々一緒になるAが、野球を避けている様子が切なくて仕方がなかったのです。
そんなAですが、大学2年の終わりごろ、キャンパス内の庭でキャッチボールをしている姿を発見!
嬉しくなって近づくと、「軟式ぐらいなら肘は痛くないわ。ソフトボールの授業取るから久しぶりに投げてみた。…まぁピッチャーはもうやらんけどね」と照れくさそうに笑っていました。
本当に些細なそんな出来事。自分の夢にAが出てくるまで、そのキャッチボールの光景も忘れていたような出来事。当時、それが妙にうれしくて、切なくて。
少し救われたような気持ちになったのを、ありありと思い出しました。
あっという間に41歳になった今、Aはたまには野球のボールを握っているのかなぁ…。昨年、野球部時代の友人、たいぞうに会った際、Aの近況も尋ねましたが情報はつかめず。
結婚をして子供も出来て、当時のテイクバックの小さめの肘を使い過ぎのフォームで、ピッチング指導をしてくれていたらいいのだけれど。
そう思っています。
大好きだ!とそのスポーツを愛し続けられる選手を一人でも多く
実はこの出来事が、私がコンディショニングコーチという道に進む原点。そのことに今回初めて気がつきました。来たるべきタイミングで、夢という形で認識するチャンスを何かがくれたような気がしています。
筋力やスピード、パワーを高めて動作教育をする。パフォーマンスを向上する手助けをする、という仕事そのものは同じなのですが、自分がこの仕事に携わる際の哲学に近い大切なこと。
その線引きははっきりとあるのですが、その正体があの頃の出来事にある、というのがわかって、なんだかホッとしています。
・怪我が原因で選手に後悔をさせない。
・トラウマになるような心の傷を抱えて選手を引退させない。
・共に考えて出来る最大限にトライする。
・重くなり過ぎないように愛情をもって選手に接する。
競技としてその現役生活を終えたときの晴れやかな笑顔が見たい。現役を引退しても、無邪気にそのスポーツを愛し、ずっとムキになれるマインドでいてもらいたいから。
そんな選手たちを一人でも多く作っていき、彼らが信用し信頼してくれるコーチになるために、学び続け葛藤し続けていく。そういうことなんですね。2018年の今、自分の中ですっきりと腹落ちしました。
まだまだ走り続けられそうです。楽しみながら、自分のペースで自分らしい道を走っていきます。
まとめ
・高校時代に起きた出来事が今の自分の仕事に向かうきっかけの大きな要素になっていた
・大好きなスポーツからケガやトラウマによって離れてほしくない
・自分の原点がわかりすっきり。迷わずに自分の道を走り続けます
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YUJI HIROTA
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