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「プロとして生きたい」自分を作ったもの。小さく大きな父、弘田澄男の存在 

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2010年に書いたブログを基に、今曲がりなりにも専門家として、仕事に就いている自分を形成づけてきたもの。

そんな根っこの部分について文字にしてみました。

よければお付き合いください。

一流プロ野球選手だった父

生まれてから最初の記憶。それはユニフォームを着た男たちの先頭で、ひときわ小さな父親がひたすら連帯歩調(足を合わせたジョグ)をしている姿。

川崎球場なのか秋季キャンプなのかはわからないけれど、祖母と母の二人と手をつなぎながらのその光景です。

父、弘田澄男は1971年にドラフト3位で東京ロッテオリオンズ(現千葉ロッテ)に入団。

1974年の日本シリーズではシリーズMVPを獲得。

現ゴールデングラブ賞であるダイアモンドグラブ賞を通算5回獲得ベストナインにも2回選出。

1984年に阪神タイガースに移籍。1985年の日本一に主に2番中堅として貢献。

通算安打数は1506本、通算盗塁数は294。

引退後もコーチとして阪神タイガース、横浜ベイスターズ、読売巨人軍と渡り歩き、外野守備走塁コーチとして2006年初代WBC(ワールドベースボールクラシック)の金メダルにも貢献しました。

プロ野球選手の息子という生き方

選手として一流だった父。…選手、コーチとしての実績は申し分なし。

40を過ぎた私は、今でも団塊の世代の方からは「え!あの弘田選手の息子さんですか?」、紹介される際も「ほら、あの『弘田さんの息子』だよ」。

そういわれます。

そんな父親を持つ子供、ましてや野球をプレーし始めた息子。

少年時代には意識するしないに関わらず、気がつけば好奇の目とある種の偏見に悩まされてきました。

ロッテから阪神へトレードになったのは小学4年だったころ。

急に教室に高学年の男の子たちが押し寄せ、「おい、親父のなんかいらないから掛布やバースのサインもらって来いよ~!」としつこく迫られるのは、一度や二度ではありませんでした。

時代も時代ですから、仕方がない部分もあったでしょう。

それでも当時は学校に行くのが嫌になったりしていました。

東京にいるのに、わざとタイガースの帽子をかぶって登校するなど、今と同じ変な負けん気を持っている部分があり、それも可愛くなかったんですけれど…。

走ったり捕ったりという単純な運動は得意だったものの、野球が上手かったわけではなかった私。それでも自分なりに必死に、努力はしてきたつもりでした。

中学1年秋から試合に出させてもらえるようになったころ、チームの3年生のお母さんが、
「プロ野球選手の息子だから監督さんは使いたいだけなのよ。そんなに上手くもないのに…」とひそひそ話をしているのを聞いてしまい、ずいぶん傷ついたり。

私が小中学生の時代は、親子といえども「プロアマ規約」の対象でしたから、公園やグラウンドで父親に指導してもらうことはNGの時代。

父から野球に関する技術指導をもらったのは、本当に数えるほどでした。

父弘田澄男との微妙な関係

5月13日は父、弘田澄男の誕生日。

61回目の誕生日だった2010年も、おめでとうメールをするや否や父からすかさず返信メールがありました。

私の異常にせっかちでまめなところは父親譲りなのでしょう。

2009年に千葉ロッテを退団し2010年に渋谷区青山にて、新施設で働き始めていたころでした。

「新しい環境、大変だろうけど雄士も頑張って!」と最後に一文ありました。

こんな風に年に数回ながらも、父と交流を持てるようになったこと。感慨深く当たり前じゃないなぁと感じています。

1年以上の調停の末、離婚

両親が離婚し、母親に引き取られたのが中学一年の頃。

別居し離婚調停に入ったのが、小学校5年の頃だったので、結構長い間もめた揚げ句の結果でした。

父はその後再婚しほぼ音信不通。

祖父が亡くなった通夜に高知に向かった17歳の頃を除き、一度も顔を合わせる事はなかったんです。

現場で体験した9.11の後に

日本大学を卒業後アメリカ留学へ。

懲りもせずにまた大学生をしていた二年目にあのニューヨークでの9.11テロ事件は起こりました。

当時の大統領、ブッシュ氏からの勅令で一斉に自宅待機。

日中なのに町に一人もいなくなる非常事態で、妹のように付き合っていた日本人二人とただテレビの前に佇んでいました。

あのときの恐怖は今も昨日のことのように覚えています。

国際電話の回線もパンク状態で、自分の身の安全を母や姉、当時の彼女や友人に伝えようにも全く繋がらず。

もどかしい状態の中、パソコンから一通のメールが入っていることに気づきました。

見覚えのない携帯メールのアドレスを開くと、
「テレビ観て驚き心配しています。無事ですか?父」
とだけ記したメッセージがありました。

父が自分に連絡をくれた。

教えてもいないアドレスを誰に聞いたのか、どう書いていいのかも分からない様子のメールでメッセージを打って。

自分でも驚くほど涙が出て、ただただ泣いてしまった。

私が24歳の頃の話です。

二児の父としてあの頃の父の年を追い越して

奇しくも父とほぼ同じ年頃で、同じ大阪へ単身赴任することになった私。

父からのアドバイスは
「今までほとんど遊んでこなかったんだから、魅力的な女性がいても、もうやめとけ。歯止めがかからなくなるぞ。…俺が言うと説得力があるだろ?」

…いやいや、むしろ説得力ないでしょ!

そんなツッコミは入れられず、ただ黙って苦笑いをしたものです。

70を過ぎた父は、故郷の高知に移り住んでいます。今も父とプライベートで会うことは年に1回あるかどうか。

それでもあの頃理解出来なかった親の気持ちや愛情。

そんなものを肌で自然に感じられるようになりました。

2000年の父からもらった、あの一通の短いメールがなかったら。

40歳を越えた今もなお、父親を自分の中で消化できていなかったかも知れません。

周囲はしっかりと観察して分析しているくせに、環境に迎合できない不器用さ。

冷静を装いながらひとたび興奮すると、手がつけられず好戦的になる性分。

うっとりするほど憧れた父の野球技術は全く引き継げずに、似たのは嫌なところばかり。

それでも、そんな自分が今は愛しいと感じられます。

小さくて大きな背中を追いかけて「プロとして生きる」

四国アイランドリーグプラスの1チーム、高知ファイティングドッグスの監督を2015年に終えてから、父は現場の最前線から離れました。

またちょっと小さくなった父の背中。

それでも仕事人として一生かけても追い越せないであろう大きな大きな背中。

今の仕事に対する自分の姿勢は、まちがいなく父の影響を受けたものです。

プロフェッショナルとして生きていく覚悟を与えてくれたその背中を道標の一つにして。

これからも走り続けていこうと思っています。

まとめ

・「二世選手」などと好奇の目にさらされるけど、これ、実際苦しいものです

・好むと好まざるとにかかわらず親には似ていく。親を受け入れられることって超重要

・偉大な父の仕事の歩みが自分の仕事へのスタイルを創っている。かなわなくても一生大きな背中を追いかけていきたい

 

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YUJI HIROTA

アスリートスポーツの現場をメインに活動するトレーニング・コンディショニングの専門家。「コンディショニングコーチ」ですがスポーツトレーナーといった方がわかりやすいのかも。実は鍼灸師でもあります。
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